2005年10月20日 (木)

届け出わずか2件,全国的にも貴重な地域 旧田辺市

ここの市長さん曰く,↓なことを言ってますが, 合併前で面倒な調査をしたくなかったんではないでしょうか?

  田辺市は、平成17年5月1日に5つの市町村(田辺市、龍神村、 中辺路町、大塔村、本宮町)が合併して新たに誕生しました。当市は、紀伊半島の南西側、和歌山県の南部に位置しており、 古くから紀南地方の交通の要衝として栄え、美しい海、山、川の大自然をはじめ、世界遺産に登録された「熊野古道」や 「熊野本宮大社」に代表される古い歴史や文化、日本三美人の湯で知られる「龍神温泉」や、日本最古の湯といわれる「湯の峰温泉」 など、人々の心と身体を癒す豊かな自然やたくさんの地域資源を有しています。このように恵まれた環境のもと、 『自然と歴史を生かした新地方都市の創造』を新しいまちの将来像として、 その実現に向けて精一杯取り組みを進めてまいりたいと考えています。

 

 

届け出わずか2件 埋蔵文化財包蔵地の開発
チェックが甘い? 考古学関係者が指摘
全国的にも貴重な地域 旧田辺市
【2005年10月21日付掲載記事】
 

 

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2005年10月19日 (水)

<最古の麺>中国北西部青海省の喇家遺跡から4000年以上前

◆4000年前のラーメン、中国で発見?????


細部

ナショナルジオグラフィックの記事
 中国で発見された約4000年前の「麺」。別にラーメンってワケではないのですが、このように人類が「麺」 の形の食べ物を食べていた証拠としては最も古いモノだそうです。この発見によって、 麺の言うモノの起源がイタリアではなく中国などのアジアであったコトが推測されるそうです。 これは中国の北西にあるラジア遺跡ってトコロで発見されて、麺の材料は2種類の「あわ」が使われているそうです。 この地方では7000年前から広くあわが栽培されていたらしい。
ペンルシベニア大学のパトリック・マクガヴァン教授は「この発見は年代が確かならばとても驚くべきものであり、 食品加工のとても高いレベルを示しています」っと話しているそうです。


ほんまカイナ?やけに麺が新鮮にみえますが,中国の土器の専門家はこの器どう思います?

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2005年10月18日 (火)

九州国立博物館

学問の神様、菅原道真を祀る太宰府天満宮。そのすぐ近くで現在「九州国立博物館」が完成した。わが国の国立博物館では、 東京、奈良、京都に次ぐ四番目となり、建設されるのは百余年ぶりだ。

 この博物館の構想が生まれたのは明治時代。思想・教育家の岡倉天心が、アジア諸国との交流の窓口として、 多くの文化遺産がある九州の地に博物館設置の必要性を説いたことにはじまる。以来百余年の時を越えた今 「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」をコンセプトにした新しい時代の博物館を目指し、文化庁、福岡県、(財) 九州国立博物館設置促進財団の三者により、長年の夢が実現したのだ。

大成建設HP

 

 

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2005年10月12日 (水)

骨寺村荘園遺跡:23日に稲刈り、参加者を募集 /岩手

骨寺村荘園遺跡: 23日に稲刈り、参加者を募集 / 岩手

 中世の田園風景を残す一関市厳美町骨寺 (ほねでら)村荘園遺跡で23日、稲刈りと荘園巡りが催される。主催の 「本寺地区地域づくり推進協議会」が参加者を募集している。
 

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2005年10月 6日 (木)

十里遺跡 滋賀県栗東市

十里遺跡十里遺跡は、 栗東市のもっとも北西端に存在する遺跡で、中小河川である横津川の右岸に広がる遺跡である。 数カ所で調査が行われ、 弥生後期から古墳時代初頭の方形周溝墓、河川、土坑、などが確認されている。 また1998年度には南東約200m先で、 飛鳥時代の区画溝、建物などが確認された。 溝からは多くの祭祀遺物とともに木簡が出土し注目を集めた。その後2000年度には、 本調査地すぐ北~東隣りの調査が行われ、 弥生後期から古墳時代前期の河川、溝、土坑約160基が確認されている。

溝巡らせた竪穴住居跡見つかる 栗東・十里遺跡 首長支える階層か

 滋賀県教委は5日、 栗東市十里の十里遺跡から、弥生時代末期-古墳時代前期の周囲に溝を巡らせた竪穴住居跡4棟が見つかった、と発表した。(京都新聞) - 10月6日12時10分更新

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京極氏の館 実はご立派 滋賀県米原 推定規模これまでの2・5倍

 

京極氏の館 実はご立派 米原 推定規模これまでの2・ 5倍

 滋賀県米原市弥高と上平寺、 藤川にまたがる地に本拠を構えた戦国時代の守護大名・京極氏の館の敷地が、これまでの推定規模の2.5倍で、 約2500平方メートルであることが分かり、5日、同市教委が発表した。市教委は、 全国の他の守護館に匹敵する規模だった可能性があるとしている。
 

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2005年9月30日 (金)

女郎花遺跡/八幡市_京都 建物の柱穴、井戸、段々畑の遺構が出土

建物の柱穴、井戸、段々畑の遺構が出土 八幡・ 女郎花遺跡

 京都府の八幡市教委は29日、 同市八幡大芝の女郎花(おみなえし)遺跡で、古墳時代と推定される建物の柱穴や井戸、 鎌倉時代から中近世にわたって耕作されていたと見られる段々畑の遺構が出土した、と発表した。
 女郎花遺跡は男山丘陵の東側。斜面から、柱穴4つと直径約1・6メートルの井戸1基、排水用の溝、 平安時代末期まで農業や生活に使われたとみられる直径約16メートルの人工池の跡などが見つかった。 この上にたい積した鎌倉時代以降の地層からは、段々畑跡が出土した。
 調査は、道路建設に伴い、8月初旬から約450平方メートルを対象に発掘した。周辺からはこれまでにも、西車塚、 東車塚古墳などで構成する男山古墳群などが確認されているが、庶民の生活を伝える遺構の発見は男山では初めて。
 現地の北約500メートルには、名刹(めいさつ)、正法寺があり、市教委は 「1191年の正法寺創建で人が集まったため斜面が造成され、耕地利用されるようになったのでは」と推定している。
 10月1日午後1時半から現地説明会を行う。問い合わせは市教委社会教育課Tel:075(983)5746。

(京都新聞) - 9月29日22時48分更新

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2005年9月29日 (木)

湧出山遺跡:弥生中期の高地性集落跡 高月町 /滋賀

湧出山遺跡: 弥生中期の高地性集落跡 見張り台・通信手段に使用?-高月町 / 滋賀

 ◇湖北で初確認
 高月町教委は28日、同町唐川の湧出山遺跡で、弥生時代中期終わりごろの高地性集落跡を発掘した、 と発表した。高地性集落跡は湖西地方を中心に県内では5例目、湖北地方では初確認となる。
 町教委が、 標高約204メートルの湧出山山頂近くの5世紀中ごろに築造されたとみられる方墳の発掘調査をしていてみつけた。 3棟分とみられる屋根を支えた支柱穴などがある竪穴住居遺構、段状住居遺構、ピットなどを検出。 すすなどが付着した弥生時代中期終わりごろのかめ類、つぼなどの土器も一緒に出、 住居跡からは生活痕を示す焼土、炭化物も出土した。
 湧出山の東端部は、北陸と陸路の出入り口になる余呉谷を望み、 南は湖北地方の平野部を眺望できる戦略上の拠点地域。町教委では、当時、 湧出山南側の集落を支配する政治集団が、 見張り台やのろしを上げる通信手段にこの高地性集落を使っていたのではないか、とみている。
 現地説明会は10月1日午後1時半、同町唐川の日吉神社(赤後寺)に集合。 問い合わせは高月町出土文化財センター(0749・85・5863)。9月29日朝刊 (毎日新聞) - 9月29日17時1分更新

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2005年9月20日 (火)

宇治市街遺跡

 京都府宇治市歴史資料館は20日、宇治市宇治の宇治市街遺跡で、平等院を創建した藤原摂関家が関係する別業(別荘)跡の一部とみられる遺構が見つかった、と発表した。

現地説明会は23日午前10時から午後3時半まで。駐車場なし。

「太田さん家の手づくり洗剤」を販売する京都はんなり本舗

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2005年9月15日 (木)

観覚寺遺跡 奈良県高取町

最古の石組み池発見=6世紀、台所? 庭園説も-渡来系豪族が築造か・奈良

 奈良県高取町教育委員会は14日、同町の観覚寺遺跡で、 6世紀に築造されたとみられる石組みの長方形の池跡(東西5メートル、南北4メートル)を発見したと発表した。 7世紀には飛鳥京などの庭園に石組みの池が造られるが、6世紀の石組み池はこれまで見つかっていなかった。
 池のすぐ東からは大壁建物に備え付けられた暖房施設のオンドルも見つかった。 大壁建物は四方を壁で囲まれた建物で、朝鮮半島に起源があるとされ、池も大壁建物とともに朝鮮半島から渡来した豪族が造ったとみられる。
 同町教委は、オンドルの火のたき口と池が約2メートルしか離れていないことから、池から水をくんで炊事をした可能性があるとみている。 一方、「生活用の水をくむための池なら、石で飾る必要はない」として「観賞用の池ではないか。飛鳥京の庭園造成の技術につながる」 とみる専門家もいる。 

(時事通信) - 9月14日18時1分更新

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2005年9月10日 (土)

古墳後期の「登り窯」出土 加古川・坂元遺跡

 県教委は8日、加古川市野口町坂元の坂元遺跡で、古墳時代後期(6世紀)に埴輪 (はに・わ)を焼いたと見られる窯跡と、家や盾などをかたどった14個以上の形象埴輪の破片が見つかったと発表した。県教委によると、 埴輪窯跡の出土は県内で初めてという。10日午後1時半から現地説明会を開く。

平成16年10月11日坂元遺跡現地説明会資料

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2005年9月 9日 (金)

平城第390次発掘調査(名勝旧大乗院)に伴う現地説明会

そのまま引用

日 時
平成17年9月17日(土)
  説明は午後1時00分から1回 ※小雨決行
 
場 所
奈良市高畑町 名勝旧大乗院庭園
  (案内図参照)(25.8KB)
 
交 通 :JR・近鉄 奈良駅からならまちバス又は、天理・下山行きバス8分で『奈良ホテル』下車
 
報告者:平城宮跡発掘調査部 考古第二調査室 主任研究官 高 橋 克 壽

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高陽院跡発掘調査に伴う成果発表

現地説明会資料

財団法人京都市埋蔵文化財研究所
                     TEL  075-415-0521


           高陽院跡発掘調査に伴う成果発表について

  (財)京都市埋蔵文化財研究所では,今年7月から藤原頼通の邸宅であった高陽院跡(平安京左京二条二坊十町) の発掘調査を実施しています。その結果,邸宅内に設けられた園池の南岸,大炊御門大路北側築地と側溝などを発見しました。 高陽院の建物や庭園は,絢爛豪華を極めていたことが『栄華物語』などにも記されています。 つきましてはこの調査成果を皆様にご説明いたしたく,下記のとおり現地説明会を実施いたしますので,ご案内申し上げます。
                                                                             記

  日   時  平成17年9月10日(土)  午前10時~11時

  場   所  京都市中京区竹屋町通油小路西入西竹屋町511  (別紙参照)

  問い合わせ  財団法人京都市埋蔵文化財研究所 075-415- 0521
                        
現場事務所                075-211-5172

  
交通案内  *市バス『堀川丸太町』下車 南東へ徒歩約5分

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2005年8月31日 (水)

古墳時代前期の前方後方墳見つかる…大阪・羽曳野

 大阪府羽曳野市東阪田で古墳時代前期(4世紀中ごろ~後半)の前方後方墳が見つかり、未盗掘の埋葬施設から三角縁神獣鏡1面をはじめ多数の副葬品が出土したと、同市教委が31日発表した。旧地名から「庭鳥塚古墳」と命名された。

現場の写真(記事より)

古市古墳群の紹介(藤井寺市教育委員会)

●大阪府羽曳野市東阪田の周辺地図

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膨大な文化財 対策に本腰 京都市、築400年の二条城

 築城から400年がたち、老朽化の進んでいる世界遺産・二条城(京都市中京区) の長期的な修復の在り方を検討する元離宮二条城保存整備懇談会の初会合が30日、中京区役所で開かれる。傍聴者は、10名とありますが、これってほとんど密室会議?

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2005年8月26日 (金)

飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査の現地説明会

資料PDF

「飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査の現地説明会を下記のとおり開催いたします。

日 時

平成 17年 8月27日(土)
午後1時30分から   ※小雨決行
 
場 所
奈良県橿原市高殿町
 「飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査現場 *(案内図参照)
 
交 通
近鉄大阪線「耳成」駅下車南へ徒歩25分
 
報告者
飛鳥藤原宮跡発掘調査部
文部科学技官   市  大 樹
 
* 駐車場はありませんので、車でのご来場はご遠慮下さい。なお、現地説明会場へは地図の矢印の道順でお越し下さるようお願いします。 現場周辺の畦道や水田を通ることはご遠慮下さい。

奈良・藤原宮跡    (2005年08月26日  読売新聞)
朝堂院建物跡が出土 東西49メートル、南北11メートル
 藤原京(694~710年)の宮殿があった奈良県橿原市高殿町の藤原宮跡で、儀式や政務を行う朝堂院の建物のうち、国家の予算編成や徴税、戸籍編さんを行う民部省の役人が着座した「東第六堂」の建物跡が出土し、奈良文化財研究所が25日発表した。巨大な建物跡(南北11・2メートル、東西49・1メートル)がまるごと見つかったうえ、正面に天皇が政務を執った大極殿や耳成山をのぞむロケーション。同研究所は「大和三山に囲まれた当時の朝廷の姿をしのぶ貴重な資料」としている。
 朝堂院は大極殿南側にあり、親王や太政大臣、役人が着座する12棟が東西対称に並ぶ建物群。役人は各官庁から同院に集まり、朝の会議「朝政」を開いた。
 「東第六堂」は最も南側にある東西に長い建物で、確認された朝堂院遺構としては4棟目。現在の総務省の一部と財務省を兼ねる民部省の主計寮、主税寮の役人が着座したとされる。
 柱を立てる礎石は平城京遷都に伴い、大半がなくなっていたが、1辺約1メートルの2基が元の位置と離れた場所で出土。礎石を置く直径1・5~2メートルの穴には、礎石を安定させるために人頭大の石が敷き詰められていた。構造は南北に庇(ひさし)がある切り妻造りで、役人は板張りの床にむしろを敷いて座っていたとみられる。基壇の外縁は木枠で囲んでいたらしい。
 建物の周囲はれき敷きの空間が広がり、格調高い院内の様子がうかがえる。
 現地説明会は27日午後1時30分から。

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平城京は大きかった? 九条大路の南で区画道路跡が出土

平城京は大きかった? 九条大路の南で区画道路跡が出土
朝日新聞2005年08月26日19時43分

 東西と南北の道路(破線)の交差点付近(右が北方向)=26日午後、奈良県大和郡山市で南北と東西に走る道路跡(破線)が見つかった発掘現場(上が北方向)。「調査地の概要」図の中央の十字路にあたる=26日午後、奈良県大和郡山市で奈良時代の首都、平城京(710~784年)跡の南側で、京の内部と同様の区画道路跡(8世紀初め)が見つかった。26日、奈良県大和郡山市教委と元興寺文化財研究所が発表した。京の外で区画道路跡が出土したのは初めて。九条大路が南端とされてきた南北約4.8キロの平城京は、南側に400メートル以上広く、十条大路が存在した可能性も高いという。京の範囲は明治時代の研究で確定したが、1世紀ぶりに見直しを迫られそうだ。平城京は奈良市と大和郡山市にまたがり、今回は京の南端を東西に走る九条大路の南側(大和郡山市下三橋町)の約1万2千平方メートルを調査した。見つかったのは、幅が約22.7メートル、約8.7メートル、約7メートルの3種類の道路跡計4カ所で、総延長は約230メートル。道幅はそれぞれ京内の道路とほぼ同じで、南北道路の出土位置は京内道路の延長線上にあった。数メートル四方の小さな建物数棟の跡も確認された。今回の調査で、道路は少なくとも九条大路の南側約400メートルまで広がっていたことを確認。京内には約530メートルおきに東西を走る大路があり、さらに約130メートル南に十条大路があった可能性が高いとみて調査を続ける。見つかった道路跡と建物跡は、出土した土器の年代などから、平城京遷都の20年後の730年ごろまでには使われなくなり、土砂などで埋められ整地されていたらしい。その後は水田などになり、今回の発見まで地中に埋もれていた。「宮殿から遠すぎて不要になったのでは」などの理由が考えられている。 また、九条大路の中央にあった羅城門の東約500メートルで、8世紀後半の羅城(城壁)跡が初めて約10メートル分見つかった。これまで地形などから、羅城門の両脇に延べ130メートル程度の城壁があったと推定されていたが、それより長い延べ1キロ以上の城壁があった可能性が高くなった。国内では都城を取り囲む城壁はないとされているが、平城京では南側には少なくとも城壁があったとみられる。現地説明会は9月3日午前10時から午後4時まで。小雨決行。JR、近鉄の郡山駅からシャトルバスが運行される。

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長岡京市歴史フォーラム

発掘調査テーマに座談会など長岡京で「歴史フォーラム」

Kyoto Shimbun News 2005年8月6日(土)

長岡京市教委と同市埋蔵文化財センターは6日、京都府長岡京市神足2丁目のバンビオ1番館で「長岡京市歴史フォーラム」を開いた。地元の歴史ファンら約60人が訪れ、弥生-長岡京-江戸の3時期について、同センターの調査員3人からJR長岡京駅の西口再開発に伴う発掘調査(1998-2004年度)の成果を聞いた。また、市街地における発掘調査の難しさなどをテーマに、座談会も行われた。

 長岡京期を担当した木村泰彦調査員は、長岡京右京六条一坊で出土した建物の遺構群を報告。「四町四方が内溝で囲まれている。その東側に34棟が東西方向に整然と並んでおり、平城京や平安京にも、今のところ類例のない特異な遺構群です」と説明した。

 恭仁宮跡調査専門委員会委員長の中尾芳治さんも「長岡京の造営に携わった人びとが生活していた可能性もある。西側は、資材置き場などに使われていたのではないか」と推測した。

 中尾さんと向日市埋蔵文化財センター事務局長の國下多美樹さん、長岡京市文化財保護審議会会長の井ヶ田良治さんの3人による座談会も行われ、市街地における発掘調査の難しさや課題が話し合われた。國下さんは「地域住民の理解を得るためにも、丁寧に分かりやすく、調査成果を公開することが重要だ」と語り、井ヶ田さんも「歴史資料館のような施設を長岡京市にも作ってもらえたら」と話していた。

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2005年8月17日 (水)

大月前山遺跡

大月前山遺跡:中世に栄えた平泉寺末坊跡の全容、明らかに-上志比村大月 /福井

 ◇字名と伝承、残るだけだった--建物跡、初めて確認
 福井県上志比村大月の「大月前山遺跡」で、中世に栄えた平泉寺(同県勝山市)の末坊跡の全容が、同県教育庁埋蔵文化財調査センターの調査でほぼ明らかになった。同寺の末坊は同県北部に数多く伝わるが、建物跡が特定されたのは初めて。
 平泉寺は、鎌倉~室町時代には6000坊を有したと伝わるが、1574(天正2)年の一向一揆との戦火で滅亡した。
 各地にあったとされる末坊は現存の史料に記録がなく、大月前山遺跡の推定範囲も「寺屋敷」の字名と地域住民に末坊伝承が残るだけ。中部縦貫自動車道の建設計画に伴う03年からの発掘で、約1万2500平方メートルの範囲から礎石のある本堂と隣接する建物などが当時の石垣などと共に出土した。焼け跡もあり、本堂の入り口が北東の白山に向けられている。
 遺跡は九頭竜川左岸の丘陵地にある。斜面に沿って降りた場所は当時の港を示す地名が残る。同センターは「当時の寺は物資の中継地の役目も担っていたのではないか。平泉寺勢力の全容を知る上での貴重な証拠となる」と話す。
8月16日朝刊 (毎日新聞) - 8月16日16時43分更新

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近江国庁の役所か 大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土

最近は、現地説明会にもなかなか行けません。

近江国庁の役所か
大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土 

Kyoto Shimbun News 2005年8月17日(水)

大津市教委は17日、近江国庁の関連施設跡とみられる史跡「青江遺跡」(同市神領4丁目)から、3棟分の掘っ立て柱建物跡が見つかった、と発表した。うち一つは、国庁の中心施設「政庁」の東脇殿跡に次ぐ規模で、国庁で使われた飛雲文の模様が入った軒丸瓦も発見されたことから、市教委は「近江国庁と深いかかわりを持つ官衙(かんが)(役所)ではないか」としている。

 近江国庁は8世紀から10世紀まで、近江国を統治した。青江遺跡は史跡「近江国庁跡」の南約500メートルにあり、1999年度の調査で国司級の役人の住居とみられる建物跡が見つかっている。

 今回は、青江遺跡の東南部の約1万平方メートルを発掘した。建物跡は近接して建てられ、うち2棟は重複していた。最大の建物跡は南北27メートル、東西6メートルの長方形で、国庁と同じ方位に建てられ、政庁の東脇殿跡(南北48メートル、東西7メートルと推定)に次ぐ大きさだった。8世紀後半から9世紀初めに作られた土器や瓦の破片も大量に出土していることから、3棟とも、この時期の建造とみられる。

 市教委は「建物の近くで硯(すずり)や水滴も見つかっており、文書行政を担う官衙だったのではないか。これまで官衙は近江国庁周辺でしか見つかっておらず、離れた場所で見つかったのは初めて。国庁と方位が同じであることから計画的に造られたとみられ、官庁街だった近江国府の広がりがわかる」としている。

 現地説明会は20日午前10時半から。

 地方官衙の遺跡に詳しい奈良文化財研究所(奈良市)の山中敏史・遺跡調査技術研究室長の話官衙は政治の実務を担う場所で、国庁から広範囲にブロックをなして散在していた。今回の発見は、近江国の都市計画を知る手掛かりになる。

近江国庁の重要施設か 滋賀、文具や瓦も出土

2005年08月17日水曜日 河北新報社ニュース
奈良時代から平安時代の役所「近江国庁」の関連施設とみられる大津市神領の青江遺跡で大型建物跡が見つかり、同市教育委員会が17日発表した。
 同遺跡は近江国庁跡から南に約500メートル。これまでは役人の居住区とされていたが、周辺から硯(すずり)や水滴などの文具、国庁と同じ模様の瓦が出土したことから、実務的な役所の可能性が高いという。
 同市教委は「規模などからみて重要な部署が置かれていたのでは」とみており、古代の地方行政の実態を探る手掛かりになりそうだ。
 建物跡は3棟分あり、最大で東西約6メートル、南北約27メートル。国庁と方角を合わせ、計画的に配置されていた。市教委によると、国庁と関連施設がこれだけ離れて見つかるのは珍しいとされる。
 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「予想より広い範囲に、国庁関連の建物があったようだ。近江国府にとって、青江遺跡は重要な役割を果たしていた」としている。

青江遺跡:掘立柱建物跡発見 奈良後期―平安初期の近江国庁関連施設--大津 /滋賀

 大津市教委は17日、同市神領4の青江遺跡で、奈良時代後期から平安時代初期にかけての近江国庁関連施設とみられる掘立柱建物跡が見つかったと発表した。市教委によると、国庁関連の建物の遺構としては政庁に次ぐ規模という。
 建物跡は国庁跡の南500メートルにあり、桁(けた)行9間(27メートル)、梁(はり)間2間(6メートル)で南北に延びていた。8~9世紀の遺構とみられ、ふかれていたとみられる瓦に国庁から見つかったものと同じ飛雲文と呼ばれる文様があることから、国庁関係の官衙(が)(公的施設)だったと推測されるという。
 市教委は「同時に出土した土器に、何に使われた建物だったかを示すような文字が残っていないか、詳細に調べたい」と話している。現地説明会は20日午前10時半から。問い合わせは市教委文化財保護課(077・528・2638)。

8月18日朝刊 (毎日新聞) - 8月18日17時0分更新

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2005年8月11日 (木)

遺跡データーベース

奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/

 全国統一より研究重視と、見出しにありますが、統制のとれていないデーターベースで十分な研究資料の検索って本当にできるのでしょうか?っていうか、精度も質もまちまちだから真の意味での統制は、相当難しいんでしょうね。単純に数値化できないところが、考古学の難しさなのでしょうが.......................................。

全国統一より研究重視  朝日新聞企画特集2005年8月11日 

 考古学は比較の学問。遺跡や遺物を他のものと比べて分類し、それをもとに歴史の流れを明らかにする。
 しかし文化庁の統計では、73年に年間約1200件だった全国の発掘調査が30年後の03年には約8千件になり、情報量がどんどん増えていく。この中から、目当ての比較材料を探すのは大変だ。
 そこで、遺跡情報を検索できるデータベースがほしい。奈良文化財研究所がホームページ(http://www.nabunken.jp)で公開している遺跡データベースは、全国最大のものだ。96年11月に19万件だった収録データは、今や33万6500件。全国50万件といわれる遺跡の6割をカバーできるようになった。
 このホームページには、木簡(4万件)、墨書土器(1千件)、軒瓦(7万6千件)、発掘庭園(300件)、薬師寺典籍文書(1100件)などのデータベースもある。ただし、いずれも「目次」で、詳細は発掘調査の報告書などで確認する必要がある。
 電脳時代の昨今、全国の報告書を一つのデータベースにまとめることもできそうだが、そう簡単ではない。例えば、「縄文」を「縄紋」と表記する人がいるように、研究者の考え方によって用語が違うことも多いからだ。奈文研文化財情報研究室の森本晋さんは「遺跡データベースは全国統一を目指していない。それは統制につながり、自由な研究を阻害するおそれがある」と話す。
 それでも、遺跡データベースが充実すれば、いろいろな使い方が出てきそうだ。全地球測位システム(GPS)が付いた携帯電話で現在地周辺の遺跡を探す、というようなことも理論的には不可能ではなくなっている。

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青森県:赤平(3)遺跡

青森県埋蔵文化財調査センターって段ボールで遺物の管理をしてるのですか?

ちなみに赤平(3)遺跡の現地説明会案内はここ

東北町の赤平(3)遺跡を一般公開 【写真】 2005/08/11 10:39 北海道新聞社

aomori  青森県埋蔵文化財調査センターは七日、東北町の赤平(3)遺跡で現地見学会を開き、十世紀半ばのものとみられる壕(ほり)跡や同時期の竪穴住居跡などを一般公開した。 同遺跡は七戸川南側の丘陵地に位置する主に平安時代の集落跡。東北新幹線建設に伴い、昨年度から二カ年計画で発掘調査が行われ、これまでに竪穴住居跡六十四軒、土坑(どこう)五十一基、壕跡三本、土器類など段ボール箱二十箱分が見つかった。遺構は複数の時期(十-十一世紀)にわたっていることから、「住居群を壕が取り囲む『防御性集落』の変遷を語る重要な遺跡」(同センター)として関心が高まっている。 一般公開には、青森県内各地から約六十人の考古学ファンが参加。同センター職員の説明を受けながら、本年度新たに見つかった十世紀半ばのものとみられる幅約三・五メートル、深さ約一・五メートル、長さ約六十五メートルの逆台形状の壕跡などを見学した。壕跡は一部クランク状になっており、突き出た部分にはやぐらが築かれた可能性が高いとみられ、参加者たちは熱心にメモを取りながら約千年前の動乱に思いをはせていた。

<写真:新たに見つかった10世紀半ばの壕跡を見学する参加者たち> (東奥日報提供)

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2005年8月 5日 (金)

遺物は落とし物

 埋蔵文化財あまり聞き慣れない言葉ですが、埋蔵文化財とは、もともとは『文化財保護法』のなかで用いられたもので、遺跡(いせき)・遺構(いこう)・遺物(いぶつ)をあらわす概念(がいねん)として使用されていた用語です。

と理解していただければよいでしょうか。『文化財保護法』とは,歴史的・文化的・自然的遺産である文化財の保護を目的として制定された法律で、その中には,遺跡の発掘に際しての手続きや、遺跡のある場所での開発に対する処置が定められています。
 たとえば、遺跡が自分の所有地であっても,勝手に発掘をしてはなりませんし,遺跡への対応を全くしないで、土地の開発を行なうことも禁じられています。なお,出土した土器や石器などの遺物については、『遺失物法』の規定に基づき、落とし主の分からない遺失物として扱われ、誰の土地から出たものでも、まずは国が所有することになります。
 
 簡単にいうと、土の中に埋まっている文化財

ちなみに京都市の周知の埋蔵文化財包蔵地内における取り扱いは、京都市埋蔵文化財調査センターでご確認を!

 調査地の警察に発見届

  遺跡の発掘調査で見つかった遺物は誰のもの?

  答えは「わかりません」。だから、落とし物としての手続きが必要です。

  文化財保護法は「所有者が判明しない時は、警察署長に通知する」、遺失物法は「落とし物は所有者に返すか、警察に届ける」と定めている。発掘で見つかったものは、ほとんどが所有者不明だから、警察に届けることになる。

  具体的には、発見した日か発掘調査終了日から7日以内に、調査地の地元警察へ「発見届」を出す。同時に、都道府県教委へ遺物の「保管書」を届ける。大量の遺物を警察に持ち込むのは不可能なので、「発掘した調査機関が保管しています」と届け出るわけだ。

  警察は遺物の鑑査を都道府県教委に依頼し、ここで認められると晴れて文化財となる。政令指定都市や中核市の場合は「保管書」の受け付けや監査を市教委が担当する。

  ちなみに、04年度に奈良県内で出された発見届は284件だった。

  もし、どこかで金印が出土して、「卑弥呼」と名前が書いてあったらどうなるのだろう?

  卑弥呼の家族が「我が家のものです」と名乗り出る可能性はゼロ。落とし物としての手続きが淡々と進むだけです。

(朝日新聞7/3)

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唐代の獅子陶枕 平安京跡で初出土

遣唐使が持ち帰る? 陶製の獅子の頭が出土 
中京区の平安京跡
 Kyoto Shimbun News 2005年3月8日(火)

 京都市中京区の平安京跡(9世紀初頭で、唐で作られたとみられる陶製の獅子の頭が見つかり、発掘調査した古代学研究所(京都市中京区)が8日発表した。sisi

 同研究所は「これまで日本で出土例のない獣形の陶枕(とうちん)だろう。かなり高貴な人物が使っていたとみられ、遣唐使によってもたらされた可能性もある」(堀内明博助教授)としている。 2003年10-12月に、中京区西ノ京徳大寺町の工場建設に伴い715平方メートルを調査した。貴族の邸宅とみられる掘っ立て柱建物跡2棟や井戸跡(直径1・6メートル)がみつかり、獅子は井戸の中から出土した。 獅子はこぶしほどの大きさで、鉄分の入った釉薬(ゆうやく)で獅子のたてがみや目、まゆ毛、鼻などが茶色で彩られた上に青磁釉が施され、開いた口の中は朱が塗られていた。 同研究所は、釉薬の使い方や土の種類が中国・湖南省の長沙窯(ちょうさよう)の壷や茶碗(ちゃわん)と同じであることや、出土した同窯の獣形枕と形がよく似ていることから陶枕と結論づけた。同窯の獣形枕は中国で5件の出土例があるが、それと比べてリアルな彩色で精巧な出来栄えという。 9世紀初頭の804年には空海や最澄らを乗せた遣唐船が唐に渡っている。838年に最後の遣唐使が送られて以降は、唐の商船が九州などに来航して交易が行われるようになる。

■奈良文化財研究所国際遺跡研究室長・巽淳一郎室長(陶磁器)の話

 大きさ、構造から見て枕の台座の一部と見て間違いない。精巧な作りで、東南アジア、西アジアでも発見例はない。長沙窯では、外国向けの製品を大量生産していたが、今回の獅子頭はそういった輸出用ではなく、唐で直接入手したのではなかろうか。

 ■村井康彦・京都市美術館長(日本古代中世史、文化史)の話

 交易によるものというより、804年の遣唐船で唐に渡った役人が持ち帰ったと考えるべきだろう。嵯峨天皇(在位809-823)の時代は、茶など多くの唐の文物がもたらされた時代。唐風文化が貴族の生活に入り込み、王朝文化の先駆けになったことを示す興味深い発見だ。

貴族の安眠守った?

 京都市中京区の平安京跡から、唐代の陶製枕「陶枕(とうちん)」に使われた獅子の顔の部分(高さ、幅各6センチ、奥行き8センチ)が出土し、財団法人古代学協会が8日、発表した=復元図、同協会提供。9世紀前半の作とみられ、獅子の形の陶枕が出土したのは国内初。たてがみやひげなども精巧に表現されており、協会は「平安貴族の優雅な生活がうかがえる」としている。

 陶枕は「エ」の字形で、獅子の顔は、頭を乗せる台の下部にあったとみられる。鉄などが入った上薬が使われ、長沙窯(中国湖南省)作らしい。獅子を飾った陶枕は、中国でも出土例は少なく、唐代は貴族専用だったといわれる。

 貴族の屋敷跡近くの井戸跡から須恵器などとともに見つかった。陶枕に詳しい脇田宗孝・奈良教育大教授は「遣唐使が日本に運んだとも考えられ、歴史のロマンを感じる」と話している。

(2005年03月09日  読売新聞)
*どのコメントもなぁ。新聞記事のタイトルもなんともはや。京都新聞はまだともかく、読売はどうなんでしょ。

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2005年8月 4日 (木)

鳥取藩御殿医の古民家発見、国文化財に匹敵

 浅川滋男教授のblog には,この記事に関する浅川氏の見解が載せられております。新聞記事の誇張表現等々は,困ったものです。ちなみに,担当記者の弁明も記載されていたりして。

 鳥取市倭文に江戸時代中期に建てられた鳥取藩御殿医加藤家の古民家が残っていることが、鳥取環境大学環境デザイン学科の浅川滋男教授(建築史)らの調査で、26日までに分かった。古い民家は庄屋や名主など豪農の住宅という固定観念を破る貴重な発見で、国の有形登録文化財にも匹敵する建物という。

 鳥取市から「鳥取市歴史的建造物調査研究」の委託を受け、2004年度に旧市内の神社、寺院、民家など合わせて730件を調査した中から見つかった。

 加藤家は、鳥取藩政資料の「在方諸事控」や「加藤家文書御改名過去帳」などによると、初代道順が1731(享保16)年に鳥取藩の御目見医師となり、2代目東悦も1776(安永5)年まで藩医を務めた家柄。

 敷地は約1000平方メートルあり、母屋は入り母屋造りの平屋。元は茅葺き(かやぶき)屋根だったが、現在は茅を降ろして鉄板をかぶせてある。道路との境に石垣が残っていて、土塀と門があったことをうかがわす。

 母屋は、鳥取県八頭町の重要文化財・矢部家住宅(17世紀建築)と同じ「広間型五間取り」という大広間の奥に5つの部屋がある構造で、大地主に並ぶ力を持っていたことを示す。

 母屋に建築年代を示す棟札などはないが、1730年代に建てたという家伝や住宅の構造から、浅川教授が18世紀前半に藩医の家として建てたと判断した。所有者は県外在住で、親類が管理している。

 浅川教授は「国の有形登録文化財にも匹敵する住宅。旧市内に貴重な古民家の残っていることが判明した。次は調査範囲を旧町村部まで広げて約2000件を調べたい」と話している。(05/07/27山陰中央新報)

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山形に平安末期の住居跡 奥州藤原氏と深い関連

山形市成安の上敷免遺跡で平安時代末期の掘っ立て柱建物の住居跡や土坑などが、30日までに県埋蔵文化財センターの発掘調査で見つかった。センターは「年代や、平泉(岩手県)で使われたかわらけ(素焼きの器)と類似した土器の一部が出土したことから、奥州藤原氏と関連が深い」とみている。
 住居跡は7棟を確認。柱穴は直径約50センチ、深さ約50センチ。最大で50平方メートル以上の建物があったとみられ、ひさしを支える柱穴もあった。輸入品の白磁なども出土し、有力者の住居と推測されるという。
 岩手県平泉町世界遺産推進室の八重樫忠郎室長補佐(44)は「かわらけは平泉とほぼ同一。遺跡は最上川の支流近くにあり、藤原氏の支配下で、水上交通によって栄えていたのではないか」と話している。

(共同通信) - 7月30日20時41分更新

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青野形住居跡を初確認 福知山・土遺跡 墨書土器も出土

  京都府福知山市土の土遺跡を昨年10月から発掘調査してきた同市教委は3日、奈良時代末から平安時代にかけてのものと見られる墨書土器1点と、古墳時代後期のものとみられる青野形住居と呼ばれる竪穴住居1棟の跡を見つけた、と発表した。den
 今回、大量の土器に混じって見つかった墨書土器の破片は、須恵(すえ)器の杯(つき)(食器)の円形の底(直径約8センチ)の裏に「田次」という文字が書かれていた。近くからは、同じく須恵器の底をすずりとして使ったとみられる転用硯(てんようけん)も見つかった。府北部ではこれまでに、同時代の須恵器の杯の墨書土器は綾部市などで出土例があるが、市教委は「有力者が率いる集落だったか、村の中に公的な施設があった可能性がある。北部での出土は比較的珍しい」としている。
 

 また、一般的な竪穴住居と異なり、住居の角になる部分を掘り残して、かまどとして使う青野形住居の跡(縦約5・6メートル、横約4・4メートル)が1棟分、見つかった。市教委は「これまで綾部市青野町の青野遺跡を中心に、舞鶴市でも見つかっている青野形住居跡が福知山市でも初めて確認されたことで、由良川流域に住む人々が同じ文化を共有していたことがわかった」とする。
 市教委は、今回の調査個所の北側部分も、引き続き調査する。
 

現地説明会は6日午前11時から。 (京都新聞) - 8月3日22時40分更新

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2005年8月 1日 (月)

ポンペイ遺跡の遺体

 ポンペイ遺跡:ポンペイ(Pompeii)は、イタリアの南部、ナポリから東約50kmのところに位置しています。ヨーロッパ大陸唯一の活火山として、フニクラ・フニクラの民謡でも有名なベスビオ(ヴェスヴィオ)火山の南の裾野、海に面した高台の面積66ヘクタールの大きな港町でした。紀元前8世紀頃にイタリアの先住民族によって建設された町であり、ローマと同じぐらい古い都市です。交通の要所として各地の民族が干渉し、ギリシャ人の植民市として栄えましたが、ローマとの争いに敗れてその支配下に入りました。
 ポンペイは、古代ギリシャ・ローマ時代を通じて、ギリシャ・ローマ時代の主要都市の1つとして、いろいろな商売の店、レストラン、公衆風呂、野外劇場、神殿、裁判所などが整い、商業、農業、その他の産業で栄えてきました。ローマ領になってからは、その繁栄ぶりはめざましいものがありました。ローマ帝国領内の自治都市として、ローマの貴族たちの別荘地として発展しました。当時の人口は約2万人5千人。公共施設が次々と建てられ、建物の構えはローマにひけをとらないほどでした。ベスビオ山麓の豊かな葡萄からのワインや、料理で使わない魚の内臓や小魚を塩蔵して作る魚ソースなどの輸出で栄え、ローマの大発展の財政的基盤の一翼を担いました。その歴史、交易、産業など多くの記述がローマの文献に残っています。

  • 1997年 イタリア世界遺産(文化遺産)認定

    ポンペイ遺跡。ボンベイ遺跡ではありません。「ポ」です。紀元前6世紀に隆盛しローマの支配下に発展しましたが、西暦79年のベスビオ火山の噴火により一瞬にして埋没してしまった悲劇の古代都市です。
    1748年に発掘が始まるまで火山灰に埋まっていました。現在は当時の文明が驚くほど発達していたことを示す邸宅や公共浴場、大劇場などが当時のまま出土され、イタリアの世界遺産に認定されました。(現在も発掘調査は続けられています)

     奴隷の骨、過酷労働で変形 ポンペイ遺跡の遺体 京大教授が鑑定

     ベズビオ山の噴火で埋まった古代ローマ時代のイタリアの都市ポンペイの発掘調査で、3年前に見つかった奴隷とみられる遺体の骨を鑑定した結果、右足をひざまずいた片ひざ立ちの姿勢を常習としていたことが分かった。発掘調査した古代学研究所(京都市中京区)は「郊外のヴィラ(農場)で働かされた奴隷ではないか。単一の労働を強いられていた奴隷労働の過酷さを示す発見」と注目している。
     ■片ひざ立ち常習?
     同研究所は1993年から、ポンペイ遺跡北辺の「カプア門」推定地約1200平方メートルを調査したが、門は発見できなかった。2002-03年にさらに城壁の北約300平方メートルを調査、7メートル掘り下げたところで2体の遺体を確認、1体には両足に金属製の足かせがはめられていた。
     昨年9-10月、京都大理学研究科の片山一道教授(骨考古学)が現地で鑑定した結果、足かせのあった遺体の右足だけに、親指付け根の骨の関節面が広く上に伸びる変形が見つかった。同様の骨の変形は、古代シリア人や中米コスタリカの先住民に報告例があり、「粉をひく」などの労働か、休息の姿勢と関連があるという。
     同研究所では、遺体の場所が城壁の外で、ベズビオ山の方向と一致することや、軽石層の上の火砕流層で見つかったことから、郊外のヴィラで働く奴隷が城壁の近くで火砕流に巻き込まれたのではないかとみている。同研究所の坂井聰助教授(ポンペイ考古学)は「発掘現場の近くでは、冶金(やきん)工房を備えたヴィラも見つかっている。骨の変形は専門化した熟練労働の反映では」と分析する。同研究所副所長の浅香正同志社大名誉教授(古代ローマ史)は「ヴィラでは十数人の奴隷が拘束されて過酷な労働を強いられていた。文献でしか分からなかった奴隷労働の実像を示す貴重な考古資料」と話している。
     【ポンペイ】 西暦79年8月24日に始まったベズビオ山の噴火で埋まったナポリ近郊の古代都市。東西1・3キロ、南北0・8キロのだ円形で3・2キロの城壁に囲まれている。噴火で人口1万-2万人のうち、2000人以上が死んだとされ、遺跡には当時の人々の生活の様子がそのままの形で残っている。発掘は1748年から始まった。

    (京都新聞) - 8月1日10時0分更新

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2005年7月31日 (日)

極楽寺ヒビキ遺跡/奈良

・極楽寺ヒビキ遺跡 記者発表資料(2005年7月13日)http://www.kashikoken.jp/from-site/2005/hibiki-2/hibiki-2.html

・御所市極楽寺ヒビキ遺跡の調査 現地説明会資料資料(2005年2月26日)http://www.kashikoken.jp/from-site/2004/hibiki/hibiki.html

 古代豪族・葛城氏の中枢施設とみられる奈良県御所市の極楽寺ヒビキ遺跡で発掘された古墳時代最大級の大型建物跡(5世紀前半)が、近くの古墳から出土した家形埴輪(はにわ)とそっくりな構造だったことが分かり、奈良県立橿原考古学研究所が15日、発表した。平べったい板状の柱を使った特殊なつくりで、柱の配置は完全に一致。埴輪の柱には呪術(じゅじゅつ)的な意味を持つ直弧文が刻まれており、実際の建物にも同様の紋様が描かれていた可能性が出てきた。このため研究者からは、建物は単なる居住空間や政治施設ではなく、祭祀(さいし)センターなど特別な性格を持つ施設だったという意見が出ており、今後議論を呼びそうだ。

(共同通信) - 7月15日18時3分更新

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野路小野山製鉄遺跡:炉跡、新たに4基出土 大規模な生産裏付け-草津/滋賀

野路小野山製鉄遺跡現地説明会案内

4基の製鉄炉跡など、新たに発掘 草津・野路小野山製鉄遺跡
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新たに4基の製鉄炉跡が見つかった発掘現場(草津市野路町)

 奈良時代(8世紀)の大規模な官営製鉄所跡として国史跡に指定されている滋賀県草津市野路町の「野路小野山製鉄遺跡」で、新たに4基の製鉄炉跡や鉄鉱石などが見つかり、草津市教委が27日、発表した。 遺跡の範囲が広がるとともに、これまでに見つかった10基に加え、今回の炉跡の分布状況から、未調査地も含め20基を超す製鉄炉が同時期に操業していたとみられ、「国内でも例のない規模で、当時の律令(りつりょう)国家が関与した官営工房の実態が一層明らかになった」としている。 遺跡の範囲確認のため、市教委は5月から、遺跡北側の私有地約1042平方メートルを発掘調査していた。 4基の製鉄炉跡は、これまでの調査で見つかったのと同じ「長方形箱形炉」と呼ばれるタイプで、炉を組んだ「炉床部」(長さ約2メートル、幅約1・2メートル)、製造した鉄を炉から取り出す「排滓坑(はいさいこう)」(直径最大2・6メートル)などからなる。  それぞれの炉から製鉄時に生じたごみを捨てる溝が、1つに合流していることなどから、極めて計画性の高い操業が行われていたことがうかがえる、という。また、出土した鉄鉱石は良質で、質がそろっており、市教委は「官営製鉄所だからこそ、鉄鉱石を選別できた」とみている。 製鉄所の操業時期は、政治の実権を握り、後に反乱を起こして敗死した藤原仲麻呂(恵美押勝)が近江国司を務めていた時期と重なることから、市教委は「近江の鉄を支配できたことが、仲麻呂が権勢を誇った理由ともいえるのでは」と推測している。 現地説明会は30日午後1時半から行われる。Kyoto Shimbun News 2005年7月27日(水)

野路小野山製鉄遺跡:炉跡、新たに4基出土 大規模な生産裏付け--草津 /滋賀

 ◇30日に現地説明会
 奈良時代(8世紀中ごろ)の畿内最大級の官営製鉄所跡が出土している草津市野路町の野路小野山製鉄遺跡を調査している同市教委は27日、新たに4基のたたら製鉄炉跡が出土したと発表した。大きさと向きがそろっており、市教委では当時の太政大臣・近江国司だった藤原仲麻呂(恵美押勝)の影響下で、紫香楽宮(甲賀市)や保良宮(大津市)などの造営に、大規模な鉄の生産が行われていたことを裏付ける史料としている。
 周辺遺跡と共に国史跡「瀬田丘陵生産遺跡群」に指定され、これまで10基の炉跡、木炭窯、管理用建物跡などが出土。今回は史跡区域の北側を調査し、「長方形箱形炉」と呼ばれる4基分の長さ約1・5~2メートル、幅約1・2~1・6メートルの炉床部と製鉄時に出る鉄のかすを流す排滓(さい)溝などが見つかった。
 市教委では、未発掘分を含め20基前後の製鉄炉がほぼ同時期に稼働していた可能性が高く、「国内にも例のない計画的な大規模官営製鉄所だったのでは」と見ている。滋賀大教育学部の小笠原好彦教授は「特に保良宮の造営に使う鉄が大量生産された可能性が高く、官営工房にふさわしい性格の遺跡」としている。
 30日午後1時半から現地説明会を開く(雨天決行)。問い合わせは市教委文化財保護課(077・561・2429)。7月28日朝刊 (毎日新聞) - 7月28日17時1分更

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諸畑遺跡 八木町 /京都

諸畑遺跡の周辺遺跡概要は、八木町報告書参照

諸畑遺跡第4次調査現地説明会の案内は京都府埋蔵文化財調査研究センター

諸畑遺跡第3次調査の概要http://www.kyotofu-maibun.or.jp/gensetu/04-08morohata.pdf

古墳前期 石組みの竈 -八木・諸畑遺跡 府内最古 当時最先端の施設

京都府埋蔵文化財調査研究センターは27日、八木町諸畑の諸畑遺跡で古墳時代前期(5世紀前半)のものとみられる石組みの竈(かまど)などが見つかったと発表した。石組みの竈としては府内最古といい、同センターは「当時、最先端の調理施設を持っていたことがうかがえる貴重な資料」としている。  府南丹土地改良事務所の整備事業に伴い、5月から約750平方メートルを調査していた。  同遺跡からは、弥生時代後期(1世紀ごろ)や古墳時代前期-中期(5世紀)の竪穴住居跡(約5メートル四方-約6・5メートル四方)の計9基を確認したほか、古墳時代前期の住居跡から石組みの竈や須恵器椀(わん)が見つかった。  これまで府内で見つかった竈は、久御山町佐山遺跡で出土した粘土製の竈が最古とされたが、石板などを使った石組みの竈では今回が最古という。  竈は、約60センチ四方で深さ約20センチ。同センターは、朝鮮半島から伝播した技術で焼いたとされる須恵器椀(直径約10センチ、高さ約6センチ)が同時に出土していることから「石組みの竈は朝鮮半島に多く、渡来人の影響を考える上で貴重な手掛かりになる」としている。 morohata

 現地説明会は30日午前11時から。問い合わせは現地事務所TEL090(3997)3776。 Kyoto Shimbun News 2005年7月28日(木)

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2005年7月 7日 (木)

平安京・長岡京

平安京・長岡京の条坊復原図の試作です。

制作協力M&Nさん。低解像度用

oldcapital1d 

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2005年6月29日 (水)

バーミヤン遺跡に新壁画 日本チームが発見

河北新報社

【バーミヤン(アフガニスタン中部)29日共同】国連教育科学文化機関(ユネスiseki コ)の世界遺産、アフガニスタンのバーミヤン遺跡で保存・調査活動に当たっている日本のチームが29日までに、壁画の一部を新たに発見した。バーミヤンで仏教文化が最盛期を迎えた6-7世紀の壁画とみられ、アジアの仏教文化を研究する上で貴重な資料になりそうだ。
 壁画を確認した和光大の前田耕作名誉教授(アジア文化史)は「タリバンによる破壊や、売買目的のはぎ取りなどで8割の壁画が失われているバーミヤン遺跡で新たに壁画が見つかるのは珍しい」と語っている。2005年06月29日水曜日

日刊スポーツ 

バーミヤン遺跡で壁画を新たに発見

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産、アフガニスタンのバーミヤン遺跡で保存・調査活動に当たっている日本のチームが29日までに、壁画の一部を新たに発見した。バーミヤンで仏教文化が最盛期を迎えた6-7世紀の壁画とみられ、アジアの仏教文化を研究する上で貴重な資料になりそうだ。壁画を確認した和光大の前田耕作名誉教授(アジア文化史)は「タリバンによる破壊や、売買目的のはぎ取りなどで8割の壁画が失われているバーミヤン遺跡で新たに壁画が見つかるのは珍しい」と語っている。調査チーム代表である東京文化財研究所の山内和也・地域環境研究室長によると、壁画が見つかったのは2001年に旧タリバン政権が破壊した東側の大仏立像跡付近のがけ下で、直径約2・5メートルの石窟(せっくつ)のドーム型天井に描かれた仏像画の胴体部分とみられる。 “青い宝石”と呼ばれる顔料ラピスラズリを使ったとみられる鮮やかな青色の模様が所々に残っている。ラピスラズリは古代から岩絵の具として使われアフガン産が有名で、シルクロードを経て日本に到来、奈良県明日香村の高松塚古墳の人物群像の彩色に使われたとされる。(共同)

[2005/6/29/12:49]

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2005年6月27日 (月)

<イラク遺跡>多国籍軍駐留で被害 ユネスコで報告

 現在ユネスコ世界遺産センターのウェブサイトでは、戦火にさらされているイラクの文化財について特集記事を組んでおり、2000年に提出された暫定リスト記載物件に関する情報が公開されています。(暫定リストとは、その国が近い将来世界遺産に登録しようとしている物件の一覧表で、いわば公式の世界遺産候補)。iq

東南アジア考古学会の声明http://www.jssaa.jp/about/statement_J.html

イラクにおける博物館、考古学遺跡、文化財の破壊に対する緊急声明

 東南アジア考古学会は、戦争によって文化財の被害を受けた経験のある東南アジアを研究対象とする立場から、イラク戦争の結果ひきおこされたイラク国内における博物館と考古学遺跡の破壊と収蔵文化財の盗難に対し、強く抗議する。また、東南アジア考古学会は、イラク国内の博物館と考古学遺跡に収蔵されたかけがえのない文化財の保護のために、あらゆる方策がとられることを強く願うものである。
 そのため、東南アジア考古学会は以下のことを要望する。
1. 国連、ユネスコがイラク国内文化財の保護のために中心的役割を果たすこと
2. 日本国政府がイラクの文化財保護に対して積極的な支援をおこなうこと。また、略奪された文化財の日本国内への流入を禁止すること
3. イラク国内の軍、警察等がイラク国内の博物館、考古学遺跡、文化財の保護にこれまで以上に関与すること
4. イラク国内の軍、警察等がイラクの文化財行政を担当してきた文化省、考古局の主要人物に対して支援を与えること。東南アジア考古学会

会長 新田栄治
2003年5月3日

記事:<イラク遺跡>多国籍軍駐留で被害 ユネスコで報告

 【パリ福島良典】考古学上、貴重なイラクの遺跡が多国籍軍の駐留で被害を受けていることが分かった。国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部・パリ)で22~24日に開かれた「イラク文化遺産保護国際調整委員会」の第2回会合に出席したイラク国立博物館のドニー・ジョージ館長らが明らかにした。一方、遺跡から盗み出された文化財は海外に高額で売却され、武装勢力の資金源になっているという。メソポタミア文明発祥の地で、文化遺産が多国籍軍と武装勢力の衝突の「もう一つの犠牲者」になっている。
 ジョージ館長によると、多国籍軍の駐留による被害が最も深刻なのは新バビロニア王国(紀元前7~6世紀)の遺跡があるイラク南部のバビロン。同館長は「米軍よりも、戦車を多用しているポーランド軍の影響が大きい。遺跡の土壌はもろく、戦車の通行で地下2~3メートルが破壊される」と指摘した。
 バビロンについては今年初め、「多国籍軍が石畳を戦車で破壊し、遺跡の破片が混じった土砂で土のうを作った」と告発する報告書を大英博物館が発表。これに対し、バビロンを含む一帯を管轄するポーランド軍は遺跡内では戦車などを使っていないと反論している。
 ユネスコの松浦晃一郎事務局長は22日、国際調整委員会開幕にあたり、「遺跡の上や周囲への駐屯地設営で取り返しのつかない被害が出る恐れがある」と指摘した。同委ではイラク側の要請を受けてバビロンの現況について集中討議した。
 一方、イラク移行政府のラウィ文化相によると、遺跡盗掘・密輸は主に(1)イラク戦争前から存在していたギャング(2)旧フセイン政権によって戦争中に刑務所から釈放された犯罪者――などの仕業で、近隣諸国のグループから指示を受けて動いている場合があるという。
 ジョージ館長は「売却資金が武装勢力に流れ、イラク警察や米軍を攻撃する武器・弾薬費用に充てられている」と明らかにした。同館長によると、遺跡から発掘された古代の粘土板1枚の取引価格はイラク国内では20~50ドルだが、米国に渡れば5万~10万ドルに跳ね上がるという。

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2005年6月20日 (月)

「但馬国府・国分寺館」

 先日,05/06/18に豊岡市「但馬国府・国分寺館」へ行ってきました。今年の3/26日オープンしたとのことで,真新しい内装と,博物館にしては,明るい空間で,設計者を尋ねると,栗生明とのこと,最近の平等院ミュージアム鳳翔館の設計などでも有名な建築家でした。ちなみに,近くにある植村直己冒険館なども氏の手によるモノだそうです。

 日高町(現豊岡市)との結びつきを感じます。話は戻って,外観は黒っぽく,通り過ぎてしまいそうな,シンプルなものでした。DSC01373

 現在,古代のまじないの道具である人形(ひとがた)と但馬国府、国分寺跡から出土した木簡,平安京から出土した,大型の井戸枠,五体が一括出土した人形,鉄鎌,篆刻の木印,漆器の小箱,蓋など貴重な遺物が比較展示されていました。

学芸員の方の丁寧な説明に,感銘をうけました。是非,一度行ってみてはいかがでしょう。
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豊岡市教育委員会 文化振興課 オリジナルホームページ:但馬国府・国分寺館

兵庫県豊岡市日高町祢布808,電話0796-42-6111 ファックスは、42-6112

■開館時間  : 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■休 館 日   : 毎週水曜日、年末年始(12月28日~翌年1月4日)
水曜日が国民の祝日にあたるときは開館その翌日が休館

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2005年6月16日 (木)

NTTドコモ関西による「古江古墳」全壊

非常に残念なニュースです。

 大阪府池田市古江町1-75-76に所在する「古江古墳」が,NTTドコモ関西の工事により全壊したとのことです。古江古墳は,古墳時代の円墳で、径13m。立地は丘陵,現況は,山林・原野とのことです。行政側,業者側の問題もいろいろあるようですが,ニュースでは細かい責任所在が今のところあいまいな気が致します。開発面積が,小さいため重要視されなかったのか,大阪府教委が指摘する周知の遺跡であるとする,周知がどれだけなされていたか,残念です。 また,よくありがちな府池田土木事務所,市担当部署,の管轄外との意識も見え隠れします。

 こうした行政の遺跡地図は,開発者や文化財担当者は周知していても,近隣に住む住人には,いったいどの範囲が周知の遺跡に指定されているか,説明も明示もまずされることはないのでしょう。この辺も問題のある点だと思います。文化財を保護するためには,行政サイドの文化財啓蒙活動も当然のことながら,もっと一般市民とともに,文化遺産を守っていく姿勢が欲しいものです。

 なお,ドコモグループの掲げる倫理方針の第八条(環境への取り組み)「私たちは事業活動と地球環境の両立、さらには住み良い地球を実現するために、未来にわたる生活の場である地球環境を保全し持続可能な社会づくりに貢献します。」
破壊されたものは,もどりません。ドコモの言う単純ミスで遺跡が破壊されたのなら,単純ミスを起こさないシステムを,行政にも求めたい。山林などには,周知されていない円墳などは,まだまだ山ほどあることと思います。今回の責任の所在が明らかにされ,繰り返しおこなわないような仕組みを行政,企業ともに求めます。

furue3 ・昭和49年頃の航空写真(この辺)

参考文献:「原始・古代の池田 」池田市立池田中学校地歴部編著,池田,池田市立池田中学校地歴部,1985年10月刊, 41頁 ; 26cm ,折り込図1枚  全国書誌番号86038189

furuekofun2 携帯基地局新設で 「古江古墳」全壊
NTTドコモ関西(大阪市)が大阪府池田市古江町の山林で携帯電話基地局の鉄塔新設工事を始めたが、府の風致条例や文化財保護法に基づく届け出をしておらず、工事場所にあった「古江古墳」が全壊していたことが分かった。事態を重視した府教委は工事中断を命じ、近く緊急調査に入る。同社は「確認を怠って申し訳ない」と釈明しているが、地元住民は「貴重な古墳を台無しにした無届け工事は許されない」と原状回復を訴えている。 同古墳は直径約13メートル、高さ約1・2メートルの円墳。76年に池田市の埋蔵文化財分布調査で発見された。横穴式石室もあり、6世紀のものとみられるが、詳細な調査は未実施。 同社はこの用地で高さ約14・8メートルの鉄塔を計画。昨年9月、下請け業者が市や府池田土木事務所と打ち合わせをし、「環境保護と土砂災害防止のため、府風致条例と砂防法に基づく届け出が必要」との指摘を受けた。 ドコモ側は地権者から用地を借り、当時の地元自治会長の同意を得て、今年2月、砂防法の届け出を提出。しかし、風致条例の届け出をしないまま4月下旬に着工した。 5月下旬になって住民の指摘で無届けが判明。この用地が、文化財保護法に基づく届け出が必要な「周知の埋蔵文化財包蔵地」であることも初めて認識したという。届け出ると、工事前に文化財の調査を行い、保護するかどうか協議をする。 ドコモ側は工事を中断し、府と府教委に、風致条例と文化財保護法に基づく届け出を提出。しかし、古墳は既に大部分が掘り起こされ、コンクリートの基礎工事が行われ、側溝の一部が残るだけ。用地近くに住む主婦(58)は「緑豊かな市の遺産がめちゃくちゃ。早急にコンクリートを撤去し、植林して元の姿に戻してほしい」と訴えている。 府教委は「文化財の確認は業者が行うのが通常だ。ただ、事前の打ち合わせの時に行政側が指摘しなかったことは遺憾だ。古墳の詳細調査が行われていないため、原状回復も困難だ」と話し、緊急調査を実施後、工事続行を認めるかどうか判断するとしている。NTTドコモ関西広報宣伝部は「申し訳ない。今後、行政の指導に従いたい」と話している。
毎日新聞 2005年6月16日 大阪朝刊

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2005年6月12日 (日)

芭蕉塚古墳の04年度調査報告書

芭蕉塚古墳:ここと道路を挟んだ駐車場のなかにも小さな雑木林が残っており,これが青塚古墳で、古墳はほとんど削られているが、濠と古墳の一部が残されており、築造年代は芭蕉塚古墳と同じ時期といわれている。この古墳を最後にして,この地方の支配者は、ヤマトの大王権の交替のもとに没落し、やがて突如登場する宇治二子塚古墳の主が、南山城の王者として登場してくる。周辺の航空写真

芭蕉塚古墳 :平川茶屋裏 前方後円墳 指定史跡 古墳中期

城陽市教委はこのほど、2004年度に発掘調査した芭蕉塚古墳(京都府城陽市平川)の成果を「埋蔵文化財調査報告書第50集」にまとめた。出土物から当時の姿を浮かび上がらせていく過程が分かる。
 芭蕉塚古墳は5世紀後半の築造と見られ、国庫補助事業で2000年度から調査している。
 04年度は2カ所を発掘した。うち前方東側で検出した2列の埴輪(はにわ)列から、「造り出し」と呼ばれる祭事用の舞台があったことが分かった。西側には01年に造り出しが検出されており、両側に造り出しを持つ大首長墳にふさわしい外観だったことが、写真や断面図からうかがえる。
 報告書は1冊400円。同市教委文化財係や歴史民俗資料館で販売している。

(京都新聞) - 6月11日11時15分更新

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2005年6月 7日 (火)

白河街区跡

現地説明会行ってきました。白河街区跡 当日は全くもって暑かったぁ。

調査機関:(財)京都市埋蔵文化財研究所資料場所新聞記事

06/06/04 10:00-11:00

sirakawa 遺跡地図より引用:白河殿と六勝寺を中心として,現在の岡崎付近一帯に平安時代後期(院政期)に開けた地域の総称で,寺院や邸宅が数多く建てられた。北は近衛通り,南は仁王門通り,東は白川,西は鴨川付近を境界にして区域を限る。白川の地は,条坊制に区画された平安京の外京と考えられている。発掘調査では,六勝寺や白河殿に関する建物や,園地跡などが検出され,更に下層からは岡崎遺跡(弥生~古墳)の遺構や遺物が検出されている。六勝寺とは,特に格の高い寺院の総称で,法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・円勝寺をさす。その他の主要なものとして,白河南殿・白河北殿・得長寿院・宝荘厳院(長承元年)・善勝寺(応徳4年)・聖護院(寛治4年)・熊野神社(康和5年)・蓮華蔵院(永久2年)・三条白川房(保安4年)・証菩提院(大治4年)・観喜光院(永治元年)・金剛証院(康治元年)・白河押小路殿(康治元年)・福勝院(仁平元年)などがある。白河殿や六勝寺の復原は,発掘調査の進展によりかなり進んでいるが,不明な点も多い。

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2005年6月 6日 (月)

西京極遺跡

京都新聞にこんな記事が載ってました。西京極遺跡:京都って平安京だけでないんですなぁ。

環濠集落 :周囲に堀を巡らし、外界と区画したり、防御を固めた弥生時代の集落。柵や土塁を設けたり、堀を幾重にも巡らすケースもある。池上曽根遺跡(大阪府和泉市)や唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)のような大型の集落も知られている。京滋でも下之郷遺跡(守山市)や扇谷遺跡(京丹後市)などがある。

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